小泉文夫先生のラジオ
- 津上弘道 Koudou Tsugami
- 2020年7月7日
- 読了時間: 5分
上手にしゃべることは大変に難しいことですが、いい語りにはそれだけで力がある。
最近、小泉文夫先生の民族音楽に関するラジオ番組がYoutubeにアップされているのに気がついてせっせと聴いています。
本当に毎回、先生のお話に引き込まれます。
まずはお声とお話の口調がなんとも魅力的で、相手を低くみるではなく平易であって、へりくだるではなく敬意がこもっている。
そして、音楽自体やその魅力を人に伝えるということに対する愛情が本当に伝わってくるようです。
お話も、とても日常的な感覚でうなずける事柄から始まって、流れるようなお話を心地良く聴いているうちに、いつのまにか専門的な内容にふみこんでいる。
そして、そこで専門用語が今までの内容の言い換えとして出てくる。
といっても今までのお話を聞いているので、ちっともカタくもないし抵抗も感じない。
リスナーはそれ以降その専門用語がでてきてもへっちゃらで、むしろ的確に内容を表している語なので分かりやすくすらあると思います。
こういうお話をされる方がいるのだな、と感服して視聴しています。
というのも、英語圏では指導的な立場にいる人物というのは、たいてい便法がとってもうまいということがずっと気になって関心がありました。
これはおそらく弁論術というものがずっと研究され技術として確立されてきたからだろうと思います。
英語圏のある種のエリートは必須の技術としてそれを身につけているような感じです。
話す内容に関係なく、「なあるほどぉ」と思ってしまうような、うまいしゃべり方。
内容に対する確信と自信を感じさせ、少々かっちりしていて理路整然とし、しかし高圧的ではなく遊びもあり、口調も充分に余白をとって洗練されている。
逆に、日本にそういう確立された弁論術ってないのかなと思っていたのがYoutube検索のきっかけ。
明治くらいまでは漢文が近しい素養だったんじゃないかと思いますが。
みんな素読して学んだでしょうから一定の読み方のスタイルみたいなものもあったのではないかと思います。
あとはなんというか、非常に個別的な集団特有の弁論術みたいなのはたくさんあると思うのですが(白黒映画くらいの時期までの「である調」演説やお坊さんのお説教、仁義を切る的なものやアジテーションとか)、それがある種普遍的なスタイルとはいえないように思います。
なんというか、個別の芸能化ともいうべき現象がおきて、細分化されていくというか。
(それは芸能の方でも細分化と共存という日本的な特徴として挙げられているものですが)
小泉先生の話に戻れば、そういう点では小泉先生は本当にすごい。
持ち前の知性と民族音楽のフィールドワークの経験によるものでしょうが、音楽研究をしている母の話がいうには、原稿などを全くみないでお話しされていたとのこと。
昨今なんでも後から編集すればいいから、というようなことになりがちにも感じますが、やはり人間が単身で素晴らしいことをできるということは何より強いことです。
皆さまにもぜひ聞いていただきたいと思います。
さて、小泉先生のお話とは当然比べるべくもありませんが、もののついでにしゃべることについて考えることを書きます。
しゃべるということは非常に多様な要素が複合的に組み合わさった総合的な行為と思われます。
声の質、音量、張り、音高など、音自体に関する要素。
話す速度や間の取り方、抑揚やイントネーションなど、音の要素をどう用いるかという要素。
語順や語尾に敬語表現や、「てにをは」に韻律など文体に関する要素。
起承転結やオチなど文章の構成や構造に関する要素。
少し考えただけでも非常にたくさんの要素が出てきます。
だからこそ、少し話し方を聞いただけでも人柄を推し量るような高度なこともできるわけですね。
演説や演劇などは人間社会にとって古代から非常に重要なものであったと思われますし、学問的にも蓄積されてきたものが大いにあるだろうと思います。
そのうちそちらも勉強してみたいものです。
そして、音楽においてもしゃべることの多様性ということは、とても関連の深いことだと思います。
というのも、音楽はその起源を考えるとき、人間のコミュニケーションに関する行為から発生して、またその中で発展してきたと考えられるからです。
くじらを狩るイヌイットの部族などの民族の狩猟歌や、アジアの田植えの作業歌というような、狩りや農耕のための音楽。
また、共同体の運営のために重要な儀礼においても音楽は多く重要な役割を果たしています。
生物としての人間の存続のために不可欠な男女の交わりということにおいても、「歌垣」というような風習が日本を含めた各所に残っています。ここではその名の通り「歌」がキーになっています。
そういった人間の社会的生活にとって重要である音楽は、しばしば詞章に独特の「節」をつけるという形態が取られてきました。
日常的な会話と区別する意味で、リズムやメロディー、ハーモニーといった要素が用いられるようになったようです。
現在一般に「音楽」の主流となっているのは西洋クラシック音楽やそれから影響を受けたり派生した音楽といえると思いますが、上記のような視点に立てば、西洋クラシック音楽は日常生活というところから離れた自立性を志向する音楽観によって作られているし、器楽中心です。
そういう意味では特殊な音楽ともいえます。
逆に、我々の日常的な感覚というものは、普段あまり耳にしていないような音楽と繋がっているということが大いにあるのじゃないかと私は常々感じています。
(生活の周りに溢れている商業主義と密接に結びついた音楽についてはまた少々違った見方が必要になると思います。それらはあまりに経済活動と深く結びついているので複雑です。)
そのように社会生活と音楽の関連というものに目を向けてみると、なんだか生活とは違った次元にあるような気がする「音楽」というものが、結構日常生活とつながっているものなんじゃないかという気がしてくるかも知れません。
音楽というのは、ひとの生活が言葉や語りの土台となり文化の源泉となる、そしてそれらがまた新しい文化的要素を発展させてゆく、そうした連続性の延長の上にあるものと思います。
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